囲碁の面白さ

2013.03.15

室内でやる勝負事の代表格は、「碁将棋麻雀」であろうか。私自身は「何を引いてくるかの運」がかなり重要な要素に見える麻雀の類いはあまり好きでない。最初に勤めた研究所の野球仲間で囲んだことはあるが、上がり手の全部は知らないという程度で、「できる」部類には入らない。将棋も子供の頃近所の仲間とやったきりだ。コマの動かし方は知っているが、どう動かしたら有利になるのか判断できないことも少なくない。仕方なく意味もなく「桂馬」を進めてはみたもの、バックできなくて後悔するはめになる。これを「桂馬の高飛び歩の餌食」と言うらしい。

では、囲碁は上手いのかというと初段からははるか遠く、「趣味です」と言うのは気がひける。しかし、テレビでプロの対局を見るのは面白いし、新聞の囲碁欄も見ている。「初段を目指して」クラスの詰め碁の本は何冊か持っていて、ときどき目を通す。佐世保出身の溝上知親八段が勝てば嬉しく思う、その程度の囲碁ファンである。家の近くのクリーニング屋のオヤジさんは、アマの高段者であるが、小学生の頃の溝上八段にコロッと負けたという話しを聞き、一段と親しみがわく。囲碁は陣取りゲームであるが、「こういう構想で打とう」とはじめに作戦(?)を立てて、その実現に向けて石を置いていく点が他にはない面白さである。途中で「こんな筈ではなかったが」となるのは、毎度のことではあるが、、、。

スポーツの実況では、「ここは何としても1点欲しいところですね」という類いの分かりきったことは除いても、解説者のいうことにハッとすることは少ない。場合によっては解説がなくても、楽しく見ることはできる。
 ところが、囲碁の対戦となると、解説者がいないとどうにもならない。どうして、その場所に石を置くのか、見ていても意味が判らない場合が多い。そこで解説者が、サラサラと10手も20手も先まで石を並べてくれて、こういう意図で打たれた手であると教えてくれる。「そうか、こんな先まですぐ読めるのか」と感心する。スポーツの場合には解説はそれ専門の人がいるが、囲碁ではいない。現役のプロ棋士が他の棋士の対局を解説する。その持ち味の違いがまた面白い。石がきしみ合う接近戦の所は読み違いすることはないが、大局的判断となると好み(棋風)の違いがある。

囲碁の対局でも、途中でどちらがリードしているか判断できる場合がある。見ている素人には判らなくても、対局しているプロはそれを意識する。こうなってからそれまでと違う面白さがある。形勢不利と判断した方は、リスキーな勝負手を打ってくる。淡々と進めて小差で負けても、捨て身の作戦が失敗して大差で負けても、負けは負けで同じことである。得失点差でどちらが上、ということは有り得ない。有利に戦っている方も、「ここは少し譲っても無難に」等と考えるといつの間にか逆転される。

最終的に勝負がついても、立会人が、「どちらの勝ち」と言うまでどちらが勝ったか不明である。もちろん陣地の取り合いゲームだから、それを数えれば判るのだが、対局者を見ている限りは判らない。勝ち負けを確認しても両方とも一礼するだけである。ガッツポーズ等絶対にない。それがプロの礼儀という訳だ。
 私自身は、碁敵とたまにやって勝ったときは、ニンマリ笑いたくなるのを我慢するのが難しい。負けたときの悔しさは、ポーカーフェースで隠しているつもりだったが、「お前とやると、負けて悔しがるから面白い」と言われたことがある。不徳の致すところである。