私の先生-2(高校)

2013.4.16

高校でももちろんたくさんの印象的な先生方に教わった。英語の先生はどなたも特徴ある先生だった。英語と英文法に分かれていたように思う。先ず英語テキストの方はジープと呼ばれる斎川先生。頭髪を頭の真ん中で左右に分けている独特のヘアスタイル先生であったが、何故それが「ジープ頭の斎川さん」となるのか今でも分からない。腕を一杯に延ばしてテキストを持ち、音吐朗々と読みながら教壇を行き来し、とうとう前の出口から廊下へ出て、後ろのドアから再び教室に入ることを特技としていた。授業の区切りの所では、「太田良いか?太田良いか?」と言って、次に「だいたいのようですね」と続ける。何が「だいたいのよう」なのか理解できなかったが、そうかと納得していた。

文法の先生は、皮ジャンパーで大きな単車に乗って通勤するチョット変わった先生だった。進み方がメチャクチャ遅く、自分でやらなければ試験のときえらい目に遭うと誰もが思っていた。教わったことで鮮明に覚えているのは2人称のshallの使い方。「Don’t move an inch or you shall die」が得意の台詞であった。西部劇映画で同じ台詞が出てきて妙に納得したものであった、スクリーンでは「動くと打つぞ」となるが、文法の時間にはもう少しきちんとした説明を聞いたように思う。

志賀先生は哲学的雰囲気を漂わせる先生であった。「昨日体調が悪くて病院へ行ったのに、お医者さんは検査の結果どこも悪くないという。本人が悪いと言っているのに、医者は悪くないという。こんな理不尽なことがあるか」、といきまいていた。この先生が野球部の顧問となって自らノックをしたということが全校の話題になった。学生の頃、小林秀雄に私淑していたということで、あるときその大先生を高校に呼んできて講演会が開かれた。この大先生一体何を言いたいのだろうという印象しかなかったが、その人の文章が今年のセンター試験の国語の平均点を下げたようだ。さもありなんと思う。

古文は、あまり好きではなかったが、担当の野呂先生は、我々が入学したとき他の高校から転任された方で、転任できたことを喜んでおられた。山上憶良の「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむぞ」という歌の解説で、「それその母も我を待つらむぞ」等と回りくどいことを言わずに、妻も私の帰りを待っていることでしょうとダイレクトにノロければ良いのに、と言っておられた。山上憶良は子供大好きの歌人で、「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」等も有名である。恋愛ものの歌がない珍しい人だそうだ。

化学の藤田先生は几帳面な先生で、見せてくれる実験も大変丁寧にやってくれた印象が深い。この先生は、「化学は選択肢の1つだな」と私に感じさせた重要人物である。

最後に世界史の松沢先生。東大インド哲学の出身。飄々とした物腰が、俗世を超越したような、いかにもそんな感じの先生であった。我々の3年のクラスは理科系受験のクラスであったが、その6時限が世界史であった。受験には関係ない生徒も多くいたのではないかと思うが、きちんと授業が成り立っていたのは、今から思うと大したものだったと言えるような気もする。あまり熱心に聴いていない生徒に「XX君、第2次世界大戦はどんな戦争でしたか?」と質問された。そのXX君が「ハイ、未曾有の大戦でした」と答えて先生を唖然とさせたことは、今でも昔の仲間が集めると話題になるトピックである。