私の先生-4(本郷)

2013.05.20

教養学部から化学科へ進学してからの先生と言えば、それから亡くなられるまでお世話になる島村先生に尽きるのであるが、もうお一方というと、同じ有機化学分野の大木先生である。もの凄いエネルギーに満ちた先生で、私の先生の中でダントツ1番である。黒板に書く構造式の量も半端でなく、また書き慣れておられるのでとても速い。ノートを取るのに四苦八苦であった。まだ30台半ばで東大教授に抜擢された有能な先生であられた。この先生は定年後岡山理科大学の教授になられた。その頃、岡山理科大学の友人に頼まれて、その研究室の博士課程の学生の審査をお手伝いしたことがある。同じ副査に、自分の学位審査の副査であられた大木先生がおられて、年月を感じるとともに、大変座り心地が悪かったことを思い出す。

卒業研究のときに島村先生の研究室に入れて頂いたことは、2月のスキーの話 のときにも触れた。ともかく、出来は悪いが精神的にはタフな学生で元気な奴ということでかわいがって頂いたと思う。先生の考え方は大学院博士課程までは「教育期間」、したがって業績重視ではなく、今後やっていける力がついたかどうかを重く見ておられたようだ。学生時代論文無しでも、一応5年で学位を取る(というより頂くことができた)のは島村研にいたからかもしれない。その代わり、先生の期待に応えなければならないという意識は強かった。

学生時代に、たまにではあるが、先生からどうにも妙なことを訊かれることがあった。中身は全く覚えていないが、どうして先生がこんなことを知っているのだろう?という内容であった。後で分かったのは、先生のお嬢様と私の高校時代からの親友が共に早稲田の歌舞伎研究会の部員で、そのルートで情報が伝わっていたのだった。そんなこともあって、先生には失礼を働くことが多かったように思う。「太田君、僕と君の間だから良いけど、そんなことは世間では通じないぞ」と説教されたことも少なくない。

1級下の学生と一緒に、「先生こういう季節には、おやつにスイカを食べましょう」とおねだりしたことがあった。「よし、じゃ君達買って来給え」と快諾頂いたのは良かったが、「それで、いくらいる?」と言われて返事に窮したことも冷や汗ものの思い出である。3人ともスイカの値段を知らなかったのだ。

大学院修了間近に、就職先のことでご相談したことがあった。「先輩もおられるし相模研へ行こうと思います」といったら、「君、先輩が誘ってくれたからといって行けるものではないよ」とピシャッと言われてしまった。次に、「先生推薦状書いて頂けませんか」という依頼にも、「僕はあの研究所の顧問だから、推薦状を書く立場にはない」と断られた。こういう点は大変潔癖な先生であられた。ともかく、相模研に就職することができ、先生も3年後東大定年と同時に副所長(有機化学部門の総責任者)で同じ研究所に来られた。それ以後、慶應に移ってからも、先生が亡くなられるまで大変お世話になった。先生の顔を潰さない程度の研究はできたのではないかと思っているが、どうなのだろうか?