私が歩んだ道 その5

2019.03.10

 前回述べた相模中央化学研究所での「微生物を活用する有機化学」研究の結果がボチボチで始めた頃、先輩から「悪いようにはしないから履歴書を私に預けてくれないか」と言われ、言われる通りにした。慶應義塾大学工学部を理工学部に改組して、物理学科と化学科を新設することになっており、声をかけてくれた先輩は化学科の教授に招聘されていたのだ。それは時間が経ってから知ることとなったが、人生にタイミングは大切だとつくづく感じた。その先輩が私の仕事に着目してくれ、有機合成と微生物利用の2本立て研究室を創ろうと考えていたのだ。もちろん日本唯一の研究室となる。しかもその頃、DNAを部位特異的に切断する酵素(制限酵素)が発見され、遺伝子工学という新しい領域が広がりつつある時期で企業もこの分野を注目していた。学問領域の展開、慶應の方針、自分自身の研究の展開の3者が非常に幸運にマッチし、おそらく慶應理工学部としては最少の論文数で助教授に採用された。新設学科だったので、文科省への設置認可や建物の建設などに時間を要し、採用決定から実際に移るまで2, 3年あった。その間、論文になる見込みがついた研究はしばらくストップし、新しいネタを見つけることに注力した。論文を書くのが多少遅れても、他人に先を越される心配はなかったし、慶應に移ってからできるだけ多くの論文を早く出せる作戦とした。
 今振り返って見ると26年お世話になった慶應義塾での前半は教育・研究に多くの時間を使うことができたが、後半95年の秋に学部の学習指導主任(基礎系)に任命されたことを機に学部・学科運営に多くの時間を掛けることとなった。末娘も高校生となった頃で、あまり家では必要とされないようになってきて、土日とも大学へ来ることも珍しくはなかったように思う。
 学習指導主任になって、学部長主導の学部改租、入試改革に力を注ぎ、その学生達の卒業時期に合わせて大学院を改組すべく準備した。制度改革の委員をやると同時に新たに生命科学系専修を立ち上げる準備も大変だった。この委員会の委員長であった故茅幸二先輩の曰く「安西学部長の目指す改革は大変評価できる、彼は一生懸命やっている。それで俺も一生懸命やることにした。したがって君も生命関連については一生懸命やれ!」。「これがまともな理屈か?」と大いに疑問ではあるが、ともかく任されたからには全力で、と他の仲間も引き込んで、結果的には生命情報学科を新たに立ち上げるに足る教員純増を実現させ、2002年度に1, 2年次同時開設という例外的措置でスタートすることができた。生命科学とITを融合させることを根幹とする学科に、元はと言えば有機化学反応論からスタートした者の居場所があるのか不安も大いにあった。しかし、遺伝子操作、タンパク質工学、コンピュータによる酵素の三次元構造のシミュレーション等を苦もなく取り込む若い力に助けられ、定年までの数年間、面白い研究ができたと思う。研究に関しては「私の友人」シリーズで一端をご紹介した。