私が歩んだ道 その4

2019.02.25

 理学部化学科に進学してからは、午前中に2コマ講義、午後は月曜から金曜まで3コマ分実験、と非常にシンプルな生活であった。時々夕方学生自治会室で議論する程度で遊ぶ時間はなかった。卒業研究が4年生の後期から始まると、朝から晩まで毎日研究室での生活で、以後大学院修了まで同じような日々であった。
 しかし、博士課程2年の頃、医学部の不当処分問題(その場にいなかった学生をも処分の対象としてしまった)に端を発し、学内は次第に騒然たる雰囲気になっていった。やがて運動のテーマは「不当処分」を遥かに超え、全共闘運動として全国の大学に燎原の火のごとく広がった。秋には安田講堂で大河内総長と全共闘の団体交渉が行われ、体調不良を理由に「中座」した総長を「その場で待つ」という理屈で、学生たちが講堂内に留まることになった。
 加藤総長代行が警察機動隊を導入して封鎖解除したのが1969年1月18, 19日。もちろん構内には入れなかったが、上空をヘリコプターが舞う、壮絶な2日間であった。坂田文科大臣は総長と高校時代からの友人ではあったが、その年の入学試験実施を許可しなかった。卒業式も6月に行われるという異例ずくめの1年となった。私自身は講堂に入るだけの踏ん切りはつかなかったものの、色々なことを考えさせられた1年であった。
 先輩からは博士課程修了後ポスドクとして外国へ行くことを勧められたが、ギリギリまで所定の年限で修了できる自信が持てず、外国行きはオプションから消えた。結局、なんとか学位を取得し、指導教授が顧問をしていて様子もわかっている相模中央化学研究所という財団法人に研究員として就職した。できて5年経った組織であったが、その年初めて筆記試験を課してみようということになったとかで、実際にテストを受けさせられた。「冗談じゃないよ」と思ったが仕方ない。無事通って幸いであった。興業銀行の何周年かの記念事業として創られた研究所で、系列の化学会社がスポンサーになっていた。私達は研究成果を特許化し、それをスポンサー企業に提供して製品化することを基本としていた。日本でもオリジナルな研究から企業化までやらなければという時代になっていたのである。しかし、大学でしか働いたことがない研究者が集まっても何をやったら儲けることができるのかという嗅覚に欠ける。研究成果は論文という意味では出たが、企業化に結びつく成果はむしろ例外的で、次第に規模を縮小せざるを得なくなった。
 私自身は働き始めて5年経った時点で「君は力不足だから有機合成はやめて、微生物を利用して何か面白いことをやってくれ」と当時副所長になっておられた恩師の先生に言われ、迷うことなく全く新しい領域に踏み込んだ。化学をやりながら生物に近づくことは自分の興味と一致していたし、「新しいこと」を一人で始めることは「ワクワク感」があった。例によって「失敗しても死ぬ訳ではないし」という気楽さもあった。当時テキストらしいものは1冊だけで、内外の総説誌を1ページずつめくってヒントを探すこと1年、ともかくテーマを定めて実験を再開した。こういうときに「私の歩んだ道 その3」で触れた教養学部時代の友人がいたことは非常に頼もしかった。また技術的なことに関しては野球の対抗戦をしていた発酵会社の方に教えてもらうことができた。