私が歩んだ道 その3

2019.02.10

 高校に入学して1年間は人が変わったように勉強した。父が新潟医専卒で「せめてそのレベルの大学に」と考えたのだ。新潟大学では医学部が最難関学部で、仮に医学部以外へ進学するとなると、県外の大学を受験する必要がある。今のままでは難しいと考えて勉強した。その甲斐あって1年の終わり頃の成績はトップクラスまで上がり、こんなにガリ勉する必要はないと感じた。と言っても、この時期に部活を始めるのは遅すぎる。何となく生徒会活動に首を突っ込んでいった。
 新潟高校の生徒会活動では、2年の7月〜12月までと2年の1月〜3年の6月までが生徒会長、役員の任期であった。その後半の任期を務める生徒会長に手を挙げる者がいなくてなかなか決まらなかった。業を煮やして顧問の体育の先生が何人か集め、誰かやらないかと候補者を募った。その時、後に御茶ノ水大学に入学して間も無く文藝春秋に「女子大生亡国論」なるエッセイを投稿して物議をかもした女子学生が「生徒会なんてどうでも良い」という趣旨(多分)の話を滔々と述べた。これで火をつけられたSS君が大演説をぶって、自分が引き受けると宣言し、生徒会長になった。私に「お前も一緒にやるよな」と声がかかり役員を務めることとなった。
 生徒会役員といっても会長を入れて5人、ほとんど毎日放課後体育教官室(ここが生徒会室でもあった)へ集まって、話し合いをした。年度末の最も大きな仕事は予算の配分。ラーメン一杯40円くらいの時代に生徒会費は年間1人1000円で、全部で100万円以上のお金をどのクラブへどれだけ配るか決める。我々は相当時間をかけて各クラブの活動状況を調査し、実際に見て思い切った予算配分をしたように思う。今思うとこの5人の絆はどれより強いものとなった。
 生徒会役員の任期がきて、1学期末の「大運動会」(青陵祭と称し、競技、仮装、応援3部門で得点を争う。1位は小さなアンパン3個、総合優勝に+1個)が終わると、いよいよ受験勉強。県外の国立のどこにしようか考えているとき、SS君の曰く、「お前が東大を受けないと、俺が邪魔したことになるから、東大を受けろ」と。奇妙な論理(になっていないか)ではあるが、吹っ切れた感じになり、父に一浪まではOKと言われ、東大目指して再び猛勉強を始めた。数学・理科・英語はまあまあ良しとしても、国語はどう勉強して良いか分からず、日本史と世界史で戦えるレベルまで行くのは大変であった。しかし、スタート地点が低かっただけに、2, 3回受けた旺文社の模擬試験での順位は文字通りうなぎのぼりで、気分の良い受験勉強ではあった。
 東大は私が受験した年まで理科も文科もⅠとⅡだけであった。私は生物系、化学系、医学・薬学系に進学できる理Ⅱを受験した。入学してからもそこそこの成績を取らないと希望通りの学科に進学できないが、入学時にどうしてもこの学部・学科と決めていなかった私には都合の良い制度であった。
 最も進学したかった生化学科には点数が足りず、医学部はまた受験しなければならいのが面倒でやめた。生物系は、これで飯が食えるのかと考え、結局化学系に進学した。理学部化学科、農学部農芸化学科、薬学部とのどれにするか迷った。分からないなら一番根っこに近いところと考えて、理学部化学科に進学した。教養学部の我々のクラスからは実に医理薬農工5学部の十数学科に進学していて、その後の各人の人生行路を見ると、バラエティーに富む友人ができたことは非常に良かった。