私が歩んだ道 その2

2019.01.25

 転校した2学期には級長にさせられた。それから6年の2学期まで、途中組み替えがあったが、ずっと級長が続いた。何故か分からない。一番嫌な日は、先生が出張でいない日だ。課題があったかどうか覚えていないが、「クラスの皆が自習するようにまとめる」のが級長の役割だ。そんなことできるわけない!
 小学校のことはあまり覚えていないが、最も大騒ぎになったのはクラスのワル2人が行方不明になった時だ。結局、2, 3日後に仙台(多分?)で保護されて学校に戻って来た。2人は競馬場で馬丁の手伝いをしており、原野を駆ける馬を見たいと思い立ち、北海道へ行こうと出かけ、途中で御用となったのだ。
 浜浦小学校でも学校ではクラスの子と遊び、放課後は近所の子と遊ぶという「原則」は守られていた。先に書いたように遊び場に恵まれていたので、いろいろなことができた。競馬場でレースをやっているときは、柵の外からそのレースを見ることができたし、やってない時は中に入り、生えている適当な木を利用してチャンバラをした。小学校のグランドでは野球、工業高校の「庭」では、ビー玉、メンコ(パッチと称していた)、木陰で将棋、体育館に忍び込んで卓球、砂浜ではキリギリス捕り、木ノ実を利用しての鉄砲ごっこ、ハマグミ採り、冬の竹スキー等々。休日には、遥か遠くに見える弥彦山目指して海岸沿いに歩いたこともあった。もちろん行き着ける訳はなく、お日様の具合を見て引き返す。
 6年生のいつからか、生徒何人かである先生の家に夕食後に集まって勉強を教えていただいた。母親達が画策した新潟大学教育学部附属中学を受験するための準備であった。イヤもオウもなく勉強はして、合格したいという強い気持ちがあるわけではなかったが受験し、幸いにして(結果的に見てそれ以後得られた友人を考えると)合格した。試験で今でも覚えているのは理科である。レンズや鏡の組み合わせの図があり、入って来た光線がどのように曲がってどこに行くか図示する問題であった。上手く作図できたのだが、終了時間になって、作図用の別紙があることに気がついた。ショックであったが、もうどうにもならない。点数をもらえたのかどうか気になり、入学してから先生に訊きに行こうかと考えたこともあったが、知ったから何かが変わる訳ではないと思い直し、不明のまま卒業した。問題文中に「別紙に作図」の指示があった筈で、現に手元にあるのに気づかずに時間を過ごす等、あり得ないことであるが、実際にやってしまったのだ。
 中学ではテニス部に入り、日が暮れるまで練習した。と言っても、新潟では屋外のクレイコートでテニスができるのは半年程度である。できる期間中は日曜日もやった。市内ではどの学校も同じ条件なので、練習量が多かった我々のチームは優勝を狙えるレベルであった。上級生が用意するメニュー通りに練習するだけで、先生が関与することは全くなかった。部活で顧問の先生が大変という昨今とは別世界であった。
 高校進学は、大部分の男子は新潟高校、女子は中央高校(女子校)と決まっていたようなもので、考える余地はなかった。また、受験勉強で汲々しなくても合格するのは、さほど難しくはなかった。合格発表を自分で見に行き、合格を確認した後映画を見に行って(ジェリエッタ・マシーナとアンソニー・クイーンの「道」)、母親に叱られたことを覚えている。せめて知らせてから映画に行けば良いのにと言うことで、当然といえば当然であるが、合格して当たり前と考えていたということだろう。