私が歩んだ道 その1

2019.01.10

 私は3月末日をもって、学長を退任する。年齢的にもそれ以後働くことはないだろうから、散歩道の最後は「来し方」を振り返ることが許されるかなと考え、これまで歩んで来た道を簡単に書いてみたい。
 生まれたのは中国・大連である。大連病院の医師として勤務していた父は1945年になって間もなく、赤紙が来て出征した。その年の8月に無条件降伏し、父はそのまま新潟に帰国した。私達一家は、伯父の家に世話になり、1947年2月に日本へ引き上げるまでの約2年、父のいない生活であった。大連でのことはほとんど記憶になく、育ったのは新潟という実感である。
 新潟では、北蒲原郡葛塚町という所に住んだ。幼稚園はなかったので行っていない。49年に入学した葛塚小学校の敷地の1辺は道路に面しているが、他の3辺は田圃と接しているという米どころであった。父が医師であったので、時々家にまで急患の呼び出しがあった。そのお礼が現物であったこともあり、終戦後のひもじい思いはしないで済んだ。娯楽は自転車で回ってくる紙芝居だけ。
 学校へ行くときは、同じブロックの、学校から1番遠い子がスタートとなり、次々学校に近い子を呼び出して皆で学校へ行った。学校へ着くと、授業が始まるまでの時間は一緒に登校した仲間で遊び、昼休み、授業の間の休み時間はクラスの仲間で遊び、帰りはクラスの仲間と一緒に帰ることが習慣であったように思う。家に帰った後は近所の子と遊んだ。年の違う子と遊ぶチャンスがあったことは、子供の成長にプラスに働いていたと思う。
 冬には、当番が倉庫までバケツ一杯の石炭を取りに行き、それが暖房用だるまストーブの燃料であった。夏には友達が朝早く誘いに来て、カブトムシやクワガタを捕りに行った。新潟の田のあぜ道には、稲を乾かす時に使う竿をつけるために程良い間隔で木が植えてあった。その木に虫がいるのだ。太くはないので、小学生の力でも二人で揺すると虫が落ちて来た。早起きして出かけないと先に来た子に虫を持っていかれてしまう。
 釣竿の先に赤い布を付けて、「カエル釣り」もよくやった。このカエルを餌にして川で雷魚を釣る。釣れた雷魚は鶏の餌になった。鴨を飼っている家もあった。夕方、川で「カンコカンコ」と呼ぶと、川で放し飼いしていた鴨が集まってくる。これを小屋へと導く訳だ。飼っていると言えるかどうか怪しい。
 3年の5月連休の頃(1951年)、新潟市へ引っ越した。家は通学した浜浦小学校のすぐ前、道路を横切れば学校だった。学校のグラウンドの後ろは砂丘で、徒歩2、3分で海岸であった。隣は新潟工業高校で、柵の無い「庭」が道路に面していた。海岸と反対側へ数分で競馬場があり、レースをやっていないときは簡単な柵をくぐって中へ入ることができた。これら全部が我々の遊び場であった。