私の友人 その1

2018.07.10

 もちろんどなたにも親しい人、友人はいる。様々な人と様々な機会で知り合って、その後も様々なお付き合いへと発展する。私は小学校の時に知り合った友人とは、今お付き合いや年賀状の交換はないが、それ以後知り合った多くの友人がいる。同じ中学、高校時代からの付き合い、大学では前半2年と3年からではクラスが違うし、研究室に入ってからの先輩後輩もいる。最初に勤務した相模中央化学研究所、慶應義塾に移ってから知り合った人、そして佐世保へ住むようになってからも大勢の方と親しくなった。また、化学の研究を通して親しくなった人も少なくない。国内にはもちろん、外国にも友人と呼べる人は少なくない。そのような中から、外国の友人の想い出話を書いてみたい。

 私が助教授から教授に昇任させて頂いたのは1990年である。その昇任が学科内で話題となり始めた頃、「太田は、国際会議で発表していないことは教授として問題だ」ということになった。私がやっていた分野は、大変新しく、国際会議を開くところまで成熟していなかったし、外国まで出かけるのは時間の無駄、と考えていたのだ。しかし、それで教授昇任が見送られるのは癪なので、ともかく発表しようと考え、適当な学会を見つけ、アメリカ、ニューヨークへ行くことにした。

 せっかくアメリカまで行って、15分か20分話して帰るのはバカバカしいと思い、当時私がやっていた分野に関する世界唯一のテキストを書いていたカナダとアメリカの2人の研究者を訪ねることにした。まだe-mailのない時代である。その2人に手紙を出し、「アメリカで開かれる会議で発表する。ついては貴研究室で講演をさせてくれ」と頼んだ。このような申し込みを全く面識のない人にすることは相当図々しいと承知の上で、ダメ元の依頼であったが、幸いにも2人からOKをもらった。Toronto 大学のProf. John Bryan JonesとWisconsin大学のProf. Charles J. Sihである。この2人とその後親しくなれたことは、私にとって非常に大きなことであった。特にBryan Jonesさんは、国際会議の質疑応答時間に「Bryan from Toronto」と言って挙手すると会場全体がシーンとなって彼が何を訊くかと注目を集める第1人者であった。彼が後押ししてくれたお陰で短期間で多くの人と親しくなり、国際会議で招待講演を行うことができたと思う。1989年以降毎年1, 2回は顔を合わせ、お互いの研究について話すことは、国際会議に参加する楽しみの1つとなった。

 5で割り切れる西暦の年のクリスマス前に、「環太平洋化学会」なる大掛かりな国際会議がハワイで開かれる。領域が異なるいくつものシンポジウムがワイキキのホテルを会場に開かれる。私が「現役」の頃は、アメリカ、カナダ、日本、韓国、台湾等から参加者が多かった。私が初めてシンポジウムの世話役をしたのは1995年であるが、その時にはBryan Jonesにco-organizerを引き受けて頂き、Charles Sihを招待講演のトップに据えて充実した議論ができた。但し、Bryan Jonesは「Hiromichi, I am happy to help you, but Hawaii is not a good place to discuss chemistry. So, I won’t come to Honolulu. = 喜んでサポートするけど、ハワイは化学のディスカッションには不向きな所だから私は行かないよ」と言って、学会には参加しなかった。