60年の変化その10 クラブ活動

2018.06.10

 「60年の変化」シリーズは2016.10.26の「計算機」で終わっている。もう種切れと考えたのであるが、もう一つあった。最近中学のクラス会があり、卒業60年の記念すべき会であったが、公務の都合上残念ながら欠席せざるを得なかった。その機会に思い出すことを書いてみると、メディアで話題になっている今の学校(主として中学?)での部活の様子と我々の経験となんと違うことかと感じ、これも「60年の変化」の一つとして紹介する気になった。60年前と今と比べて「どちらが良いとか悪いとか、こうすべき」という意図は全くなく、ただ単純に大分違うな、と感じて書くだけなので誤解なきようにお願いしたい。  中学の時の部活は軟式テニスをやった。試合に出るようになる前の1年のまだ始めの頃に大事件が起きた。球拾いをしないでふざけていたか何かで、1年生男子9人のうち7人が3年生の前に集められ、散々説教された挙句に「お前らは除名だ」と宣告されたのだ。顧問の教員の意見も何も無い、キャプテンはじめ2, 3人の3年生のその場の判断で「除名」である。「1週間謹慎」とかいう程度ではなく、紛れもなく「除名」である。よくもこんなことがあり得たものだ、と思う。我々としては「これは如何なものか」とどこかへ訴え出ることもなく、顧問の先生がどうするこうするもなく(多分何も知らなかった)、既成事実となった。今ならこうはいかないだろう。残った1年生はわずか2人だったので1, 2年後の他校との対抗戦のことを考えれば、テニス部としては大変困ることになる。具体的なプロセスは全く覚えていないが、案の定復帰の誘いがあった。結局私を含めて3人は戻り、4名は復帰を潔しとせず、他のクラブで活躍したのであった。  私達が3年の時、団体戦(3組の勝負)新潟地区(新潟市及び近郊)大会でベスト2にランクインし、県大会への出場権を勝ち取った。新潟県は長細い県なので、県大会に参加するためには、どうしても1泊しなければならない。そのためには、さすがに先生の引率がなければ行くことは叶わないということになった。当然顧問の先生(初めてこの先生が顧問だったのか、というのが実感だったように思う)が同道して頂けると期待した。しかし、この期待は無残に破られ、「公務多忙で行けない。他の先生も行けない。したがって君たちは参加を諦めなさい」という職員会議の決定だった。初めて、そして最後のチャンスに県大会出場の機会を掴んだのに、中学生活3年を通して最も悔しい思いだった。土曜の午後や日曜に時々コーチに来てくれた「イトケンさん」という先輩(銀行勤務の社会人)が親切に、それなら自分が付き添いで行ってやるとまで仰ってくれたのに、それも不可。3年の夏休みのことで、我々は不完全燃焼のまま受験の準備を始めざるを得なかった。当時の先生にとって部活の負担はゼロであったのだ。  もう一つ、テニス部は夏休みに合宿していた。2, 3年生の男子だけだったように思う。構内に炊事場がついた「記念館」と称する宿泊施設があって、そこを利用した。これは学外に出る訳ではないし、ということか顧問教員不在でOKだった。ご飯の用意をするのは2年生、食器に盛るのは3年生、後片付けは2年生。要するに手間暇かけるのは2年生で、3年生はそれを好きなだけ食べることができる仕掛けで、これも今の世の中ではあり得ないことかもしれない。でも、遠くへ行くのではなかったけれど、仲間と2, 3泊とはいえ、寝食を共にしたのは楽しい思い出である。