60年の変化その6 ワープロとPC

2015.06.15

「60年の変化その5」で書いた夢の電動タイプライターをあっさり追い出したのはワードプロセッサー(ワープロ)であった。こちらは、日本語の文章も書ける優れものであった。私が慶応義塾大学で職を得たのは1982年4月であるが、そのときに卒業研究で入ってきた学生の一人がこの手の機械に強い学生だった。その学生が大学院生であった時に研究室でワープロを使い始めた。オジさんだけではとてもできないことが若い力で可能となる(もちろん、オジさんにも多くの有能な方はおられるが、私は一番下の方である)。ソフトは「一太郎」であった。

 ローマ字で入力すると漢字やひらがなで印刷できるということは、考えてみれば、これは凄いことである。極端に言えば、英文なら打ち込んだ字がそのまま印刷されるだけであるが、日本語では「変換」という過程が入る。ローマ字やカタカナは、正しく英語を発音するという観点からは、あまり好ましいものではないかもしれない。しかし、このスキル無しにアルファベットのキーボードを叩いて日本語の文章を書くことは不可能だろう。ハングルやアラビヤ文字の文章を書くときには一体どうするのか、見当もつかない。
 日本人は、ローマ字の読み書きを小学生のときにできるようになるのだから、大変なことだ。これさえできれば、e-mailも書けるようになる。漢字は読めるけど書けない、となってしまっても致し方ないかもしれない。

 この画期的優れもののワープロも数年でPC(Personal Computer)に取って代わられた。コンピュータとは、計算能力が非常に優れているものというメージがあったので、コンピュータで文章や絵を書くとはどういうことなのだろうかと、なかなか納得できなかった。私の研究室にPCが入ったのは、1988年春で、学科の中でも早い方である。健康を害された教授が残念ながら逝去された時、奥様がMacのPCを2台とレーザープリンターをご寄付下さったのだ。化学構造式を描く場合には、Macのソフトが断然使いやすかったので、この分野では皆さん使いはじめはMacであろう。当時、PCもプリンターも1台100万円以上であった。私が最初に自動車を買ったのは1971年、結婚したときである。1500 ccの中古の価格が25万円であった。高度成長期の頃で、ものの価格は上がっていたとはいえ、PCが高額なことはご理解頂けるだろう。「なんで、こんなに高いものが”Personal”なんだろう?」と思ったものだが、ホントにPersonalになってしまった。大したものだ。
 当時の記憶媒体は3.5インチのフロッピーが主体で、容量は1枚わずか1メガバイトであった。しかも実によく壊れるので、2枚同じものを作る必要があった。

 e-mailを使い始めたのは1990年代のなかばであるように思う。このおかげで、海外の研究者仲間との連絡が極めて容易になった。アメリカでもヨーロッパでも大学からの帰りしなにe-mailを送っておけば、翌朝返事が来ているという具合である。e-mailが一般的になると、学術雑誌への投稿も紙ではなく、e-mailでの原稿送付を求める出版社が多くなった。出来上がった論文を添付し、出版社が求めるデータを記入し、最後に「送付」をクリックすると瞬時に投稿完了となる。これでうまくいったのかどうかいつも自信が持てない。その点、瞬時に送られてくる「受け取った」というmailはホントに有り難い。PCの使い方が分からないときはいつも学生に訊いていた。「先生、コンピュータというものは、人と違って命令通りに動くものなのです。きちんと命令しなければなりません」と、ニヤニヤしながら教えてくれるが、操作が速いので、メモを取ることができない。結局、最低限の事も覚えたかどうか怪しいうちに定年を迎えてしまった。